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E-FriendsプロジェクトDobar Dan Japan > 報告会のスピーチより

ゆかり
堀由佳梨
 ボスニアの首都サラエボは私が思っていたより活気がありにぎやかな街でした。市場やセルビア正教の教会、ハト広場など日本では見られないボスニアならではの日常風景が見られてとてもいい経験になりました。
そんなボスニアの街で特に目をひいたのはボスニアの工芸品の数々です。露店には工芸品がありました。ほとんど木彫りの箱にパイプ、とてもユニークな色彩でとても美しかったです。他に戦争のことを学んで一番すごいなと思ったのは過去の戦争という壁を乗り越えて、力強く生きているボスニアの人々です。
 この旅を通じてそんなボスニアの人達の温かさに触れられてとても良かったです。
たかこ
弥冨多可子
 私は今回の旅で、ボスニア内戦について、そして戦争そのものへの意識が深まったような気がします。
 ボスニア内戦は、民族同士の戦争でした。この戦争でセルビア人は「民族浄化」といって他の民族の存在そのものを消そうとしました。ボスニアの街をあちこと回りましたが、その中で何か見かけたぐしゃぐしゃになった建物がありました。それは老人ホームだったのだそうです。また、音楽学校へ行った時の校長先生のお話で、戦争の時子供たちを殺すため木の周りに敵兵に地雷を埋められたそうです。老人を殺すのはその民族の過去を消すため、子供たちを殺すのは未来を消すため・・・。   また、私たちは破壊された世界的文化財のスタリ橋も見ました。戦争では、そういう民族の「誇り」さえも壊されてしまったのです。日本でも55年前の大戦で多くの非戦闘員が死にました。しかし、「老人」、「子供」に標的を定めたものはなかったし、文化財に関してはあえて攻撃をされませんでした。
  戦争は決してあってはならないことです。しかしボスニア内戦のような現実を見ても、この世界に様様な人種が存在し、権力を求める人間がいる限り、戦争がなくなることは無いと思います。ですが、このように力無い者が殺されていくことだけは全力で防がねばならないと思います。それは平和の中に生きる私たちにとっても大切な課題だと思います。 平和の中に生きているからこそ、より深く考えなければいけないんじゃないかとこの旅を通じて感じました。
あや
松永 彩
 私たちの訪問した、ボスニア・ヘルツェゴビナは、1992〜95年12月 までの約4年間、民族同士の争いがおこりました。 この国は、日本と違って同じ国の中に3つの民族が住んでいます。セルビア・クロアチア・モズリムの3民族はそれぞれの指導者が主張する 「民族浄化」によって引き裂かれこの時から長い戦争が始まってしまいました。
 ボスニアについてまず目に付いたのは空港からホストファミリーの家までの道で見た銃弾の跡や壁の崩れた家です。写真などで見てはいましたが、 その傷跡はとても痛々しいものでした。
 戦争が終わってまだ5年しか経っていないのにボスニアに住んでいる子達は とても明るく感じました。本当にここで戦争があったとは思えないくらいでした。ボスニアに滞在している間に色々な所に行きました。どこに言っても目に付くのは戦争の傷跡でした。オリンピックスタジアムのそばにあるたくさんのお墓を見たときは言葉も出ませんでした。その中でも特に小さなお墓を見つけたときにはその子の命の短さに胸が締め付けられる思いがしました。壊されてしまったモスタルのスタリ橋、戦争の時に食料や武器を運ぶために使われていた トンネルにも行きました。
 私たちはボスニアで本当にいろいろな事を学んできました。実際戦争のあった場所に行って自分の目で見て体で感じてきて良かったと思います。だからこそ、二度と戦争などあってはいけないと痛感しました。この事を、いろんな人に伝えていきたいと思います。
りさ
蓑田里沙
 私がまずボスニアに着いて思った事は、戦争があっていた所とは思えないくらいきれいだったことです。
 たまに建物に鉄砲の弾の跡とかあったり、窓が壊れていたりしました。戦争が始まった時に3分の2の人が逃げて、3分の1の人がボスニアを守るために残ったと聞いて驚きました。もし自分がボスニアの人だったら、きっと逃げていただろうと思います。残るなら死ぬ覚悟で残らなければならないと思いました。それに最初持っていた武器は、ナイフぐらいだったと聞いて、そんなものでよく戦えたなと思いました。きっと、安心してぐっすり寝れる日はなかったと思います。寝れないとボーとするから、寝れる日が少ないと言う事は、すごくきついと思います。
 そして、びっくりした事が私のホストファミリ−の友達の家に夜行った時に その人の家はマンションで階段を上らなくてはいけなくて、暗かったので電気をつけようと したら止めらめて、わけもわからずライターの火だけで階段をのぼり、部屋に着いて中に入ったら、ろうそくの火だけでした。時間が経ったら、電気がつきました。後でわかったことは、まだそういうところもあるんだということです。 日本では、電気のスイッチを押せば、電気がつくという事が当たり前だと思っていました。でも、そこはスイッチを押してもつかず、火だけでした。
 日本では普通にしていることが、ボスニアでは普通じゃなかったりして日本はすごく豊かだと思いました。 同年代の人が戦争を体験したと思うと本当に驚きます。 食べ物なども十分じゃなくて、1日に1食、食べれればいい方で子供は育ちざかりなのに、 食べ物が十分に食べれなくて、きっとそういうことで亡くなっていた人たちも居ると思います。それに比べたら、今の自分たちの食事はすごく贅沢だと思いました。 それなのに人は今じゃ満足しなくて、本当贅沢だと思いました。
 戦争は罪のない人たちが、犠牲になるし何の特にもならないので、二度と戦争がおきないようにみんなの心が一つになればいいなと思います。 今すごく豊かなので、忘れそうだけど、こういうことを忘れないようにこれからも暮らしていかなければならないと思いました。
やすひこ
野中靖彦
 主にサラエボに滞在していたのですが、一部の建物を除いて、ほぼ街の建物は修復さ れていました。一部の、修復されていない建物というのは、内戦中銃撃を受けて、ガラスが割れたままになってたり、デコボコに壁に穴があいてたりしていました。しかし、中には内戦の事を忘れないようにする為に、そのまま残してあるものもあるそうです。また道路にも、人が爆弾に直撃して、血が飛び散ったあとに、赤いペンキを塗ってあるものもありました。
 皆さんご存知のように、オリンピックスタジアムは、お墓になっていました。たまたまオリンピックスタジアムの周りにも、お墓はあったんですけどもその墓地は、戦争の前からもともとあった墓地のようです。また、クロアチアの人の墓地は、もともと、近くに、カトリックの教会があったのでその周りにあります。ほぼ、オリンピックスタジアム跡地に作られた墓地は、ムスリムの人の墓地になっています。内戦が終わったあと、ほとんどの墓地は、きれいな墓碑が立てられていましたが、一部は、戦争の頃のままの、木の墓碑だったり、極少数だけど、墓碑も何もない墓もありました。
 また、僕たちが訪れたところに、ある一つのトンネルがありました。そのトンネルは、サラエボ空港と、ある一軒の民家、そして、その家と、イグマンという山を結ぶサラエボの人たちの大切な補給路となりました。しかし、何人かのセルビア人は、このトンネルはの潜在を知っていたようで一気に11人の人が、トンネルの前で殺されてしまうという事件もおきてしまいました。今現在この民家に住んでいる人は、トンネルの入場料で生計を立てているそうです。
 このように、たくさんの美しい風景を、一瞬のうちに変えてしまう戦争・・・たくさんの人の命を奪ってしまう戦争・・・たくさんの人の人生を変えてしまう戦争・・・の存在を、許してしまうわけにはいきません。戦争を、自分たちに関係ないものとするのではなく、どうすれば無くなるのかを、この旅行に行ったのを機に、考えていくべきだと思いました。
あきよ
中村亜紀代
「戦争が勃発しました。」これは1991年1月湾岸戦争が始まった日に私の高校の先生が授業の始めに発した言葉でした。それから一ヶ月その報道は続きました。そのころ世の中が平和である事が当然のように思っていた私の目にはそれがテレビゲームのようなものにしか映りませんでした。戦争とは当時の私にとって遠い過去を意味する言葉にしか過ぎなかったのです。
 それから10年経った今年戦後のボスニア・ヘルツェゴビナを訪れることになりました。空港で解散しホストファミリーの家へ向かう途中、破壊された新聞社をはじめ、多くの戦争の傷跡を目にしました。サラエボのいたるところに何箇所も銃弾を受けたビルが立ち並んでいました。
 到着した日から数日後、激戦地だったモスタルやオリンピックスタジアムを訪れました。モスタルにはサラエボで見たもの以上に破壊された建物がいくつかありました。中には風が吹いただけで建物の小さなかけらが落ちてくるよう場所もありました。この町には戦前ネレトバ川にかかるアーチ式の美しい橋がありました。それはスタリ橋と呼ばれ、ユネスコ世界遺産に登録を予定されていたほど素晴らしい橋だったようです。ところが1992年に戦争が始まるとその橋は美しい建築物というだけでなく、市民の食料供給を支える重要な役割を果たすこととなりました。しかしそのように重要な役割を果たしていたこの橋も翌年クロアチア人により爆破されました。その後しばらくして人々は飢餓に苦しむことになったのです。現在ではその美しい橋を取り戻そうと復元を急いでいます。
 次に1984年サラエボ冬季オリンピックが開催されたオリンピックスタジアムを訪れました。そこには現在の日本では考えられないほどのお墓が並んでいました。子どもや若者のものも多く、いまだに身元の分からない方のものもありました。後者のお墓には棒切れのようなものが立てられているだけで、名前も何も記されていませんでした。これらを見るたびに戦争は大昔を表す言葉ではないことを悟っていきました。
 最後に戦争は人の心をゆがませるものに間違いありません。人々の未来を一瞬にして奪い取ってしまうものだと思います。もう21世紀です。戦争の時代をこの辺で終わらせるときではないでしょうか。1日でも早く世界に平和が訪れることを願いたいものです。
のりよ
野中紀世
1998年にボスニアから子ども達が来日した時、私はアドナンのホストファミリーになり、今回は、前回引率者だったズラータさんの家にホームステイしました。ボスニアについてはアドナンから聞いていましたが、なかなか理解できない事もあり、今回はその謎を解く旅でもありました。

1. なぜアドナンはみやげにアニマルスリッパを買っていったか?
ボスニアは地理的にもヨーロッパの中心にあり、生活は西洋化されていると思っていました。だから家の中は靴をはいたままで、そんなモコモコのスリッパは必要ないのではと思っていました。しかしボスニアの家では玄関で靴を脱ぐことがわかりました。ズラータさんの家では刺繍のあるスリッパを借りました。冬の寒い日にアドナンママはアニマルスリッパを使ったに違いありません。

2. ボスニアのコーヒー

アドナンはお母さんの事をコーヒーなしでは生きられない人と言っていました。彼 らの生活にどの程度コーヒー文化が入っているのか知りたいと思いました。それにおみやげにもらったコーヒーセットの使い方は習いましたが、豆が違うのか、これだというコーヒーがいれられませんでした。ボスニアの人は朝食の前にコーヒーを飲みます。外出したらカフェでよく飲みます。彼らの豊かさを感じました。そしてコーヒーは豆の挽き方が全く違いました。インスタントコーヒーの様に粉末状になっています。その粉と熱湯を混ぜて火にかけ、沸騰する寸前におろしてカップに入れ、粉が沈殿するまでゆっくりと時間をかけて飲むのです。また謎が解けました。私がボスニアで元気だったのはこのコーヒーのおかげです。私のコーヒー好きを知って、たくさんの人からコーヒーや粉状になるミルまでおみやげにいただきました。おかげで今こころゆくまでボスニアンコーヒーを日本で楽しんでいます。

3. サラエボにファストフードの店ははあるのか?
アドナンはみやげにハードロックカフェのキャップを持ってきました。熊本のミスタードーナツへ行った時、サラエボにもそんな店はあると言っていましたので、そういう店はたくさんあると思っていました。マクドナルドはありませんでした。しかし、チェバプチチというハンバーガーに似た食べ物があるではありませんか。ドーナツはファストフードの店ではなく、パン屋さんやカフェにありました。つまりファストフード店はなくても、昔からのおいしい食べ物屋があるということでした。街にはキャンディーやボスニア独特のお菓子、そしてピタの店がたくさんありました。べつにファストフードの店など必要なかったのです。現在ボスニアは電気や道路などのインフラ設備が整いつつあります。しかし食文化に関しては豊かさを感じずにはいられませんでした。

4. ボスニアのお母さん達について
彼女らとのコミュニケーションは少しの英語とジェスチャーでした。今回の旅では、前回受け入れた子のお母さんたちが中心となって、私達をもてなしてくれました。特にイグマンという山の施設へ行った時、彼女らは食料持込みで夕食を作ってくれました。前日徹夜で準備をしたお母さんもいました。それは、日本の母親が文化祭や部活などでバーベキューや焼きそば作りをする時と同じでママさんパワーそのものでした。つまり日本もボスニアも変わらない、母達の強さを感じました。親子関係はとてもよく、さりげないハグもうらやましいものでした。今回は特にアドナンとは毎日キスでごあいさつしました。それは、熊本で彼が少しホームシックになった時、抱きしめることさえしなかった私の後悔がそうさせたのだと思います。アドナンママに、彼はグッドボーイですねと言った時、泣くまねをしました。それって時々泣かされるということでしょうか。少し安心しました。

5. 終わりに
私の謎は解けました。今サラエボは、2010年の冬季オリンピック開催をめざしています。1984年にサラエボオリンピックを開催できた事は、内戦後の荒廃した街に住む彼らにとって大きな誇りです。折につけ、過去のオリンピックの話をよく耳にしました。候補地がたくさんあるので実現できるかはわかりませんが、また開こうとするその気持ちが、ボスニアが内戦から立ち直ったと言う事をよく表しています。ボスニアの人々の希望が、せひ実現する事を望みます。


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Last Updated: 2002/07/12