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98年10月24日、子供世界平和シンポジウム


あいさつするブルーノ
★ 八木浩光(企画事業課/(財)熊本市国際交流振興事業団)

10月24日「こんにちはボスニア!子ども世界平和シンポジウム」を思い返して「こんにちはボスニア」プロジェクトの大成功おめでとうございます。E-Friends、YMCA多くの皆様の平和への願いが1つになり実現出来た素晴らしいプロジェクトであったと思います。このようなプロジェクトの1イベントとして、10月24日、熊本市国際交流会館にて「こんにちはボスニア!子ども世界平和シンポジウム」を開催できたことは、熊本市民の国際化推進を使命とする私共(財)熊本市国際交流振興事業団にとって大変光栄であり、今後、事業を行う上で大きなプラスになることと思います。

ボスニアの子ども達からのメッセージ、ボスニアの内戦時の映像を通して、「武力による解決は真の平和を決してもたらさない−逆に悲惨であること」を学び、攻撃でなく理性、信念を持った平和交渉により、はじめて真の世界平和が構築出来ることを強く感じます。

今回の平和構想へのメッセージは普遍的な全世界、全人類へのメッセージであり、少しでも多くの人達に伝えて行くよう努力していきたいと考えています。

最後に、近い将来、E-Friendsの皆さんと熊本市国際交流会館で再会出来ますことを楽しみにしています。

★ 谷口健太郎

ボスニアのみなさん、こんにちは。私たちの町、熊本にようこそいらっしゃいました。みなさんが日本にこられて早一週間がたちました。日本のお友達と楽しくホームステイ生活をなさっておられることと思います。私たちは先週一緒に阿蘇山に出かけましたが、台風まで私たちを歓迎してくれました。きっとどのご家庭でも、台風の中を阿蘇山に行くなんて気が狂っていると思われたことでしょう。でも、とにかく行くことにしましたが、翌日はきれいに晴れました。私たちは嵐の後の静けさとおだやかさを味わうことができました。

きっと戦争が終わった後も、このように満ち足りた喜びやあんど感、平安が心の中に戻ってくるのを感じられたことと思います。皆さんは、今みなさんの国の将来にとって新しい命の種となっています。この日本における友情の体験がみなさんのたましいを成長させ、育ててくれる新しい命の水となってくれることを願います。私たちもこの新しい友情をとおして多くのことを学んでいます。私たち日本とボスニアの子どもたちが、大人たちに対して世界平和のシンボルとなれることを願っています。私たちはこの与えられた機会を生かしてこれからも一緒にチャレンジしていきましょう。そして、新しい友情のかけ橋をきずくことで地球の未来に変化をもたらしていきたいと願っています。どうか、熊本ですごしたこのすばらしいまた心あたたまる体験を皆さんの国の方々にも分かち合ってください。

私たちに会うために、はるばる日本まで来てくださって本当にありがとうございました

オープニングを飾った益城の太鼓グループ


★ サンヤ Sanja

私たちはみんな、熊本に来て本当によかったとおもっています。皆さんの美しいお国に私たちを招いてくださって、ありがとうございます。私たちは、地球の反対側にある日本という国がどんなところなのか学びたいと思ってここに来ています。同時に皆さんに私たちのことを知っていただきたいとおもっています。

皆さんが、私たち、そしてボスニアの子供達のことを心にとめてくださったことに感謝します。私たちがそれに応えて良い思い出をのこしていくことができますように。 今日は、占領下のサラエボの生活、戦争の様子などをすこしでもきいていただきたいと思います。このような機会が与えられたことを、もう一度感謝します。

★ エルミン Ermin

私はボスニア・ヘルツェゴビナから来ました。私の国は、南ヨーロッパのバルカン半島に位置しています。非常に長い歴史(伝統)をもっています。ボスニア・ヘルツェゴビナの征服者たちは次々にかわりました。かわるたびに彼らは、それぞれの伝統、文化、習慣、宗教を残していきました。ボスニア・ヘルツェゴビナは第2次世界大戦の後に、ユーゴスラビア共和国の一部になりました。様々な文化、習慣、伝統が混ざり合って独特の文化を創りだしている多民族国家です。民族も違うし、宗教も違うひとびとが共に住んでいる国です。そのことは私たちの国を豊かにし、かつ人々を賢くしてくれます。その後旧ユーゴスラビアはいくつもの国に解体されました。いまも解体作業はつづいています。1992年の4月6日、ボスニア・ヘルツェゴビナは独立国になりました、そして世界の多くの国々から受け入れられています。

★ メルサド Mersad

国民をまもってくれるはずのユーゴスラビアの軍隊が、セルビア人以外の民族の人々を裏切ったのです。彼らはボスニア・ヘルツェコビナの丘という丘、山という山を占領しました。 ヨーロッパで5番目の軍事力をもつ軍隊です。1992年の4月、ユーゴスラビアとセルビアの軍隊は、ボスニア・ヘルツェコビナに残虐な侵略行為を開始しました。とくに首都のサラエボが激しい攻撃にさらされました。サラエボは、ボスニア・ヘルツェコビナに住むさまざまな民族、宗教の中心でもあったからです。

敵は、違う民族、違う宗教の人々の間に築かれた関係を粉々にしたかったのです。サラエボとその周辺の町や村は、たびたびの襲撃におそわれました。爆撃によって罪のない市民、女性そして子供もころされました。ボスニア・ヘルツェコビナの人々は、飢え、乾き、凍えながら、それでも感謝なことに生き残りました。

私たちは他の人々と同じ普通のせいかつに戻りたかった。町には絶え間なく爆弾の音、銃弾の飛び交う音が聞こえていました。侵略者たちは、ひとりでもおおくのサラエボの住民をころそうとしていたのです。幸いなことに、今私たちは平和に自由に暮らしています。

戦争によって、16,854人の子供達が殺されたり、飢えや寒さで死んでいきました。34,712人の子供達が負傷、そのうち1,893人は障害者になってしまいました。百万人以上のこどもたちが家を失いました。

★ アリサ Alisa

私は「護送」という言葉を実際自分がその中の一人になるまで全く知りませんでした。その日は、美しくいい天気でした。私の両親は、私と母がサラエボを離れる準備を泣きながらしていました。 その時私はサラエボを離れる事をそんなに悪くは思いませんでした。私は、数日間海岸の方へ行って又すぐ帰ってこれると思っていました。その朝早く私と母は、車とバスを待つとても長い列の中に加わりました。その中には、たくさんの母親と子供たちがいました。すべての父親は、みんな列から離れたところにいましたし、私の父もそうでした。 母は私に「私たちはこれから少し短い旅行に行くのよ。お父さんは、10日以内に私たちの所にくるわ」と言いました。

私はその時その父のいない10日という日々が3年半という長い時間に伸ばされるなんて思ってもいませんでした。その日父は、サヨナラをいう気力さえも残っていませんでした。父は木の陰でかみをかき乱しぐちゃぐちゃにしていました。その父の目には涙が見えました。

サラエボを離れる道の途中、敵の兵が私たちを止め私たちは人質になりました。 その時、町の全てが敵の兵が私たちに何をするのかという拘束の恐怖にさらされていました。そしてそこには食べ物も水もありませんでした。5千人の子供と女性が牧草地の上で生活し寝ました。

敵の兵(軍)は彼らの計画が達成された時私たちを開放し、私たちは、サラエボに帰ることなく旅を続けました。私と母は、クロアチアで1年を過ごしました。その後私たちは、そこを強制的に立ち退かせられ、ずっと探した後、最終的に私はデンマークへきました。別の護送が1995年に私に幸せを運んできてくれました。私はサラエボに帰ることができました。しかしまだサラエボは、戦争の中でした。


シンポジウムの後、 ボスニアと日本の
子供 たちが地球の絵を描きました


★ エミル Emir

サラエボは戦争の間中ずっと敵に囲まれていました。戦争が始まった時、誰も何が起きているのかわかっていませんでした。店は閉められそのうち食べ物が全く町へ入ってこなくなりました。 そしてその後サラエボは食べ物の蓄えも無くなってしまいました。大きな飢えが町を覆い、私と母は近くの公園の植物またはその根っこを使って食事を作っていました。また、私たちは色々な箱に野菜を植え窓辺やバルコニーでそれを育てました。そして最後には、建物の周りの近くの公園を私たちは耕し始めました。食糧不足の上、私たちは水もありませんでした。敵がすべての水の源を断った為、私たちは 隣の町まで水を得る為行かなければなりませんでした。私たちはあらゆる種類の車輪をカートを作る為使いそしてそれによってもっと自分達の家に水を運べるようになりました。何度も何度も、私は両親が出かけている間彼らの事が心配で不安で恐ろしくて仕方ありませんでした。夜になると私たちは、毛布で窓を隠さないといけませんでした。そうすれば敵がどこを狙っていいかわからないからです。爆弾をよける為防空壕の中にいる時ろうそくを使う人はほとんどいませんでした。永遠の死の恐怖にもかかわらず、人々はいつも平和と幸せの希望を抱いてせいかつしていました。私の願いは、ボスニアとヘルツェコビナの中に起きたような事が二度と世界のどこにも起こらないでほしいという事、そして世界の子供たちみんながボスニアとヘルツェゴビナの子供たちが味わった悲しみ恐怖を味わってほしくないという事です。

★ ミレラ Mirela

私のサラエボは、1984年2月に開催された第14回オリンピックの開催地でした。その時サラエボは全世界の出来事の中心地でした。全ての人々はそれにくぎづけでした。

約20億の人々が、完全な優れた催しの組織に驚かされました。私たちのマスコットのオオカミのブッコは、サラエボとそれを囲む美しい山々を囲むシンボルとして世界中に知られていました。その時代、全ての人々は幸せで幸福に満ちていました。サラエボは再び世界の出来事の中心地になりました。しかし不幸な事にそれは戦争によってでした。戦争の間、ボスニアとヘルツェコビナの全ての民族の統一のシンボルであったオリンピックの建物やスポーツセンターのほとんどが破壊されてしまいました。オリンピックの建物だけが敵の標的ではありませんでした。たくさんの文化的、歴史的建物も破壊されてしまいました。それらは、オリンピックセンター ゼドラ、市役所、そして郵便の本局などでした。宗教的な建物物は、敵の特別な標的になりました。敵は、彼らの宗教にはない全ての宗教的建物や、物を壊してしまいました。そして彼らの爆撃は、ボスニアとヘルツェゴビナの民族の統一と協力の思想を消し去る為、彼ら自身の宗教的建物や物にまで落とされました。全ての憎しみ、そして荒廃にも関わらず、多民族国家の思想はいつも立派なそして善良なボスニアとヘルツェゴビナの人々の心の中に存在しつづけています。

★ アドナン Adnan

戦前、ボスニア・ヘルツェゴビナの学校制度は世界中で最も優れた物だと認められており、生徒達は国際的な賞を次々と受賞していました。

ところが、その後戦争が始まると学校はしばらく休校となりました。激しい戦禍の中、狭く閉ざされた場所ではありましたが、先生方のおかげで、どうにか再開することが出来ました。その授業が行われた場所とは、地下室や避難場所のような所でした。また、授業時間は大変短いものでした。

戦時中爆撃を受け、水も電気もガスも使うことが出来なくなりました。また、危険を伴う場合は、授業に出席することが出来ないことさえありました。次第に自宅学習をすることが多くなり、教材を得ることが出来なくなりました。たった一度の爆撃により17名の児童と先生が亡くなり、何人もの人々がひどいけがを負ったのです。僕の故郷であるサラエボには爆撃を受けなかった学校は1つもありません。

平和協定締結の後授業は通常通り再開されました。多くの学校が多大なる国際支援を受け、今学校は以前より美しくなりました。けれどもより寂しげな場所となってしまいました。というのは全て学校が生徒や教師を失ってしまったからです。戦時中兵士達は1316の小学校、145の高校、35の大学を破壊してしまい、その被害はそれぞれ、15%から100%に及びました。

★ ミルザ Mirza

戦時中の前線の上での生活はまさしく地獄でした。なぜなら、大変危険な状態にさらされていたからです。つまり狙撃や爆撃によっていつ、誰が被害を受けるか分からない状態だったからです。僕たちは、射撃音をきくといつも小屋や防空壕に避難していました。前線のそばで多くの人が亡くなりました。兵士やその近所の人たちは、絶望的な表情で人々が血を流し、死んでいくのを眺めていました。僕はドブリーヤという町の最も戦禍の激しいところに住んでいました。そして僕もこの人達と同じ様な状況で撃たれてしまいました。

僕はいつも友達と2人で防壁やビルの後ろに隠れながらサッカーの練習に通っていました。ところが、ある日彼が近道をしようと言ったのです。そのとき心の中に不安がよぎりましたが、彼の言うことを聞き入れました。

まず、彼が走り出し、それからすぐ射撃音を耳にしました。先の方に目をやると彼は地面に倒れ込み、血を流していました。そこで僕は彼に手を貸そうと走りよりました。そのとき僕の背中にも痛みが走り地面に倒れ込んでしまいました。一生懸命体を動かそうとしましたが、全く身動きがとれず、僕たちは2人とも自分ではどうすることもできませんでした。

すると、現場近くにいた国連兵がそんな僕たちの姿を見て、近くの病院へ運んでくれました。その日僕は、長く大がかりな手術を受け、今では回復に向かっています。僕は今でも以前と同じ場所に住んでいます。その前線はボスニアとヘルツェゴビナを分ける境界線となってしまいました。戦争終結後もかなりの緊張感が漂っていました。その後、人々は現実になれ、自由にこの境界線を行き来できるようになった様な気がします。

★ ベリナ Berina

ボスニア・ヘルツェゴビナ戦争の間、セルビア人兵士達はボスニア・ヘルツェゴビナの歴史や文化に関するものを全て消し去ろうとしたのです。このひどく、残酷な戦争が終結したあと、その町は完全に崩壊してしまいました。その町は物質的には多くのものを失いましたが、魂は生き続けていました。サラエボに住む人たちはサラエボ魂がどのようなものであるか分かっているのです。世界中の人が目にした通り、サラエボ魂のおかげでどうにかこの世の中を生き抜くことが出来ました。このサラエボ魂は向上心と生活、文化、文明に対する信念から成り立っているのです。

これは私たちサラエボ人さえ思うことですが、世界にはサラエボが戦前のような美しさを取り戻せるだろうかと不安に思う人がいるでしょう。私もそうですが、他の子ども達もみんなもう一度あの美しさを取り戻そうと意欲にあふれていますし、自分たちが中心となってもう一度世界に明るい話題を提供したいとも思っています。

サラエボは親切な国々の支援のおかげで1日1日復興に近づいています。日本もボスニア・ヘルツェゴビナに支援をしてくれた国の1つです。

★ 加藤麻衣子

皆さん、ドバダーン。 こんにちは! 私は中学校に通っている14歳です。音楽がとても好きです。パイプオルガンとエレクトーンが得意で、バイオリンも少し弾きます。いろいろな音楽を勉強して世界中の人々と仲良くなりたいというのが 私の夢です。音楽によって国を超え、年齢を超えて人の心と心をかよわせることができると思います。たとえ言葉は通じなくても同じものを聴き、同じ感動をえることが人と人とをつなぐのです。

日本でも、今から約50年前、私のおじいさんの時代に戦争がありました。広島・長崎の原爆、空襲などで街や家や大切な人を失ったりした、とてもとても苦しい戦時中の体験を聴いたことがあります。実際に戦争を経験したことがないのですが、それだけにより一層、戦争は恐ろしいものという不安がつのってきます。

私たちは絶対に戦争を避けたいと思います。私たちは平和を守るためにできる限りの努力をして行かなければなりません。そのためには、まずは自分の国を知ること、そしてきちんと自分の国の歴史や国際関係について学び、過ちを繰り返さない判断力をつけていかなければならないと思います。

また、他の国々の言葉を学ぶことも大切です。その上で、世界中の国々について少しでも多く、広く理解を深めていくべきだと思います。そして皆さん、自分を大切にしましょう。自分を大切にできない人は、他人をも大切にできないと私は思います。一人一人が自分と周りの人を大切にし、地球上の全てに思いやりと優しさを持って生きていくことが、平和を創っていくことになると私は信じています。世界中の人たちが世界中の音楽を楽しみ、心からお互いを愛していけるような未来をつくっていきましょう。

ボスニアの皆さんのまわりにはどんな音楽がありますか?

★ 鈴木智子

平和を実現させるためにはどうするか?」と尋ねられたとき、私達は想像を絶する大問題をつきつけられているような感覚に陥ってしまいます。国家間の対立がある。宗教上の対立もある。紛争は続いている。さらにはそれら全てが複雑に絡み合った問題もある。。。

はたして世の中に平和は訪れるのでしょうか?世の中には、それを疑わざるをえない要素が満ち溢れています。

しかし、平和というものは、奥深く、難しく考えていかなければ解決法は見出せないものなのでしょうか。

まず、世界が平和になるということを考えてみましょう。それは、1つの大陸の平和、国家の平和、地域の平和と細分化できるように、世界をつくりあげる。構成単位の平和の集合体が、世界の平和になります。

社会を構成する最小単位は、1つの家庭です。つまり、平和な家庭を築き上げることが、世界平和に直結するのです。逆にいえば、まず家庭が安泰でなければ、世の中の平和はありえないということにならないでしょうか?

私達は世界の平和を語る前に、家庭の中に愛と調和があることがいかに重要かということを考え直さねばならないのではないでしょうか。

1人1人が相手を思いやる心。そして調和性。それらはまず家庭の中で築いていかなくてはならないと思います。このように考えると、世界の平和というのは決して手の届かないような理想や夢物語ではないと思います。むしろ、私達1人1人にかかっています。もちろん、突然できるものでもなければ何の苦労なくできるものでもありません。しかし、それぞれが目覚め、敬和団結し、そしてそれを広げていけば、段々と築き上げることができるものなのではないでしょうか。

そのためには、思うだけではいけません。行動・実行力が伴わないならば、机上の空論で終わってしまいます。しかし、2つだけ忘れてはならない。平和を築くために欠かせないと私が思うものがあります。それは、利己愛の反対、つまり、利己愛と、将来を見つめる心です。世の中の風潮は「万事今さえよければよい。」という刹那主義が横行しています。過去も将来も考えず、今、自分のことさえよければあとはいいという考えです。

相手を思いやる心、そして将来を考えることなくして、どうして平和が実現できるでしょうか。自分中心、現在の事のみ中心では必ず行きずまるのは明らかです。こういった考えを改め、常に、今日という日を明日のために準備して大切にしなければならないと思います。

しかし、私達は今このような機会を得て、ものすごい巡り合わせでボスニアの方々と交流をすることができています。まさに、今を大切にしなくてはなりません。そうすれば、私達は平和へとむかって一歩ずつ近ずいていくことでしょう。

最後になりましたが、私は将来国家公務員になりたいと思っています。これからも多くのことを学び、体験し、自分自身が、平和という名のパズルをつくりあげるための1つのピースであることを自覚しつつ、夢にむかって邁進したいと思います。

★ ハリス Haris

熊本の皆さんそして世界の子供たちこんにちは。私たちは、ボスニアとヘルツェゴビナの首都であるサラエボから Be My Friend そしてサラエボの頚椎麻痺協会の代表としてやってまいりました。そして私たちは、E-Friendsグループの方から、この大きなシンポジウムへの参加を招待されました。数年前、私達の国では戦争が起こっていました。ここにいる私たちは、幸運にもその戦争を生き抜く事の出来た者達ですので戦争がどの様なものであるという事を皆さんにお話する事が出来ると思います。その戦争は、20世紀の中で、もっとも悲惨な出来事でした。私達はこれから最低でも私達が体験した一部分を皆さんに説明していこうと思います。ここに来ている私たちみんなが、友達または家族の誰かを爆撃や狙撃兵の銃弾によって、または飢えや寒さでなくしました。それ以外、私達は、全ての恐怖を忘れようと頑張りながら再び生活を続けています。

私達は、平和にそして普通に生活をしたいのです。ここにいる子供たちは、大部分の子供時代を想像を絶する残虐な方法で失ったにせよ、明るい子供時代が必要なのです。私達は平和と幸せな子供時代をボスニアヘルツェゴビナ、日本、そして世界の子供たちにほしいのです。

ありがとうごさいました。

★ 宮崎 安弘

平和の大切さ、国際交流の意義、その中から生まれたEフレンズそしてこんにちはボスニアへの道のり、将来へ向けて、と非常に多くの、密な内容をたった二時間で伝えようとする非常に難しい試みであったと、私はシンポジウムを省みました。その中での私の役割はボスニアの子供たちと聴衆の方々とのディスカッションの司会進行だったわけですがプログラムのズレなどから少し内容が変わり自分の英語力の低さ、力不足からほんのわずかな司会進行しか行えずにBrunoたちのおかげで何とかそこを乗り切れました。だから私としては後悔する部分もあったわけですがシンポジウム全体としてはBruno、古木さんの司会進行の手際の良さ、他の方々の力添え、子供たちの真剣さによって先に述べた内容はしっかり伝わったと思います。これだけの大きな試みに参加し、司会をできたことはたとえ後悔はあれども自分にとってプラスになったしE−フレンズにいて良かったと思える経験でした。